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20231104

マリネッラ創業110年
ーーイタリアの文化と社会とともにーー
【特別編】1940~70年代までのコラムを振り返る

Nov 04, 2023

2024年6月に創業110年を迎えるマリネッラ。
メンズファッションエディター矢部克已氏による年代別のコラムを、記念すべき周年に向けてお届けいたします。

年代別のコラムは、イタリアの文化・風俗・ファッション・映画・芸術などの歴史を通し、トピック的な政治経済史を挿みながら、この110年の「マリネッラ」の存在を位置づけるものです。「マリネッラ」の代表的な商品となる、ネクタイの伝統的な魅力や、巧みなものづくりを掘り下げるために準備した、イタリアとナポリの歴史哲学的な視座を踏まえています。

今回は、筆者が自ら1940年~1970年までのコラムを短く解説します。

「マリネッラ」の100年を振り返るこの連載コラムは、それぞれの時代の潮流に乗った人物や商品、映画や音楽があるなかで、“マリネッラ・ファミリー”はそのときなにをしていたのか、ショップとして、ブランドとして、どのように生き抜いてきたのかを、政治や経済の状況とも位置づけて「マリネッラ」の同時代性をみつめることに重点をおいている。
今回まとめる1940~70年代にイタリアで起こった様々な出来事は、1964年生まれの筆者にとっても、徐々にリアリティをもちはじめた。書物で読んだり、映像でみるだけの遠い昔のはなしではなく、「そんなことがあった」と実感がともなってきた。

【1940年代の戦中戦後】
1940年代に遡ると、その半ばまでは国民にとって暗黒の時代だった。第二次世界大戦後、枢軸国のひとつイタリアも、辛酸をなめた。1940年代の当コラムでつけた見出しは、だった。戦後の復興は、イタリア中が待ち望んでいたのだ。
スポーツの世界では、自転車競技のファウスト・コッピが時代の寵児となった。映画や写真の世界では、ベルナルド・ベルトルッチ、オリビエロ・トスカーニ、アルド・ファライといった才能がこの世に生をうけた。自転車競技は、日本ではあまり人気のあるスポーツとはいい難いため、あえて、コッピに触れる。フィレンツェに店を構える老舗のトラットリア、「ソスタンツァ」を訪ねるとよくわかるが、店内に彼の写真が何枚も額装されている。当時のファッショニスタは、なにを隠そう彼もそのひとりだった。

ナポリの景気も回復した。
毎回コラムを執筆する前に、マウリッツィオ・マリネッラ現当主からヴィデオメッセージが送られてくる。マウリッツィオが先代から聞いている戦時中のはなしでは、ショップに売るべき商品がまったくなかったそうだ。イギリスから名品を輸入していた「マリネッラ」は、イタリア政府の輸入禁止措置をもろに受けた。初代当主のエウジェニオが店の前に座り、「売れる商品がない」と、ショップを訪ねに来た客一人ひとりに事情をはなしていた。
ところが、戦後は、マウリッツィオは、何度も「グランデ、グランデ」と繰り返すほど、ナポリ各所で盛大なイベントがあり、大いににぎわったのだ。それもあってか、ナポリの紳士は、一日に3度の着替えが復活し、「マリネッラ」が取り扱うシャツやパピオン、ネクタイの注文は絶え間なかった。

【1950年代の発展】
経済成長が進む1950年代。家電や自動車が売れに売れた。歴史的には、“奇跡のイタリア経済”と呼ばれた。マウリッツィオは、まさに高度経済成長期の1955年が誕生年である。
イタリアのファッションも、いよいよ台頭しはじめる。それまで、パリモードの下請け的な存在で、フランスの服の生産を受注していたイタリアが、自ら立ち上がる。
まず、トスカーナ州のフィレンツェから。同地出身の貴族、ジョヴァンニ・バッティスタ・ジョルジーニ侯爵の主催で、イタリア職人の巧みなものづくりを活かしたファッションを発信。アメリカの有力バイヤーをフィレンツェに招き、華やかなイタリアの服でショーを披露した。その翌年には、ピッティ宮殿のサーラ・ビアンカでのファッションショーに発展。ジョルジーニは、イタリアのモード史にその名を連ねる偉大な功労者となり、後のピッティ・ウォモに繋がる地平を拓いたのだ。

ナポリに目を向けると、服地商だった「イザイア」が、1957年に職人の町カザルヌオーヴォを拠点にして、エンリコ、ロザリオ、コラードの3兄弟でブランドの基盤を築く。ファッションが“社会的な役割”になることを見抜いていたかのように、転身し、動きはじめた。
「マリネッラ」のショップも活気に溢れた。1914年のオープン以来は、服装の基本となる、ネクタイの結び方などをナポリ市民に教えていた。さらに50年代は、いま風にいえば、“ライフスタイルにあわせ、装いをサポートする”ようになった。冠婚葬祭の全般にわたり、服装のいろはに加え、シャツの生地、色、ボタンのデザインなど、細かくアドヴァイスを添えた。
「マリネッラ」のショップは、イギリスから輸入した名品のほかに、創業当初から、巧みな仕立て技術を修めた職人が手がける、オーダーメイドのシャツも主力商品だった。しかし、50年代から60年代の境目、シャツの売れ行きに陰りがみえはじめる。マウリッツィオは、 “時代の変わり目”ととらえた。

【1960年代の活気】
イタリアも例外なく、学生運動が過熱した。1968年は、やはり変革期となった。
ファッションのシステムも大きく変化する。オーダーメイド一辺倒からプレタポルテの時代へ。そもそも、美術、音楽、映画など、文化的に豊かなイタリアで潤沢に服が売られ、市民生活の営みに豊かさと潤いももたらした。
60年代は、ローマ・オリンピックの開催。イタリア統一100周年。ミラノからナポリを結ぶ高速道路“アウトストラーダ・デル・ソーレ”が全線開通するなど、いわば全国的なお祭り騒ぎが続いた。

「ベルヴェスト」がパドヴァで誕生し、ベネトン・グループも創業。「エルメネジルド ゼニア」は、60年代半ばに既製服の生産を開始した。
メンズ・ファッションが一般に広がりはじめるころ、マウリッツィオは10歳前後でショップを手伝いだした。学校から帰ると、遊ぶ時間もなくすぐにショップへ。見様見真似で仕事に慣れていくものの、それは辛い少年時代だったと回想するが、転機が訪れた。シャツとネクタイの納品で、貴族の家を訪ねチップをもらったマウリッツィオは、仕事への責任を実感したそうだ。やがて、ある映画のワンシーンからイメージを触発され、マウリッツィオは、新しい提案のために、当時では珍しい色鮮やかなプルオーバーのニットを注文。「売れないだろう」と思っていた祖父や父親の心配をよそに、結果を出したのだ。

ネクタイの販売は好調だった。シャツよりもネクタイの売り上げが、決定的に上回ったのが60年代後半。全盛期には、シャツを手がける職人は60人も要していたが、13人に減少。そのうえ、イタリア語で“テスティモニア”と呼ばれる、実際のネクタイの愛用者が、エンリコ・デ・ニコーラ初代大統領だったこともあり、一段とネクタイが評判を呼んだ。その後、現役のセルジョ・マッタレッタ大統領まで、「マリネッラ」のネクタイは、歴代大統領に好まれ続けている。

【1970年代の進展
1960年代の暗澹とした政治や社会を引き継ぐように、70年代は“鉛の時代”といわれた。しかし、好景気は続き、経済はぐんぐんと伸びる。文化的な側面では、才能ある新しい世代が続々と世に出はじめた。
北イタリアの有力生地メーカー「カルロ バルベラ」の御曹司のひとり、ルチアーノ・バルベラが自身のブランドを設立。スーパーカーの製造で知られる「ランボルギーニ」社は、『カウンタック』の市販モデルをローンチ。いまや、世界最大級の展示会に成長したピッティ・ウォモの第1回の開催も、70年代前半だった。
70年代半ばには、ジェノヴァ出身の詩人、エウジェニオ・モンターレがノーベル文学賞受賞。先の50年代にサルヴァトーレ・クワジーモドの文学賞受賞もあり、底堅いイタリア文学が世界に届く。

「マリネッラ」も拡大の一途をたどる。政府関係者、俳優、ナポリやイタリア内外のVIPにネクタイが認知された。
マウリッツィオはヴィデオメッセージで、まず政界のジュリオ・アンドレオッティ、ベッティーノ・クラクシ、フランチェスコ・コッシーガ、シルヴィオ・ベルルスコーニが愛用していたという。俳優・映画監督では、マルチェロ・マストロヤンニ、ヴィットリオ・デシーカなど。とりわけ、インパクトがあるのは、イタリア最高のジェンティールウォモ、ジャンニ・アニエッリが「マリネッラ」のネクタイを締めていたことだ。

マウリッツィオは、思い出を語る。
少なくとも年に2回は受注のために、フィアットの本社があるトリノへ向かった。当時、二十歳前後のマウリッツィオだったが、ジャンニが注文する風景を鮮明に覚えている。好んだ生地はウールで、幅は11㎝。ウールの生地に加え幅の太いデザインは、結んだときのノットの大きさに注意が必要である。「マリネッラ」のネクタイは、その課題をクリアし、ジャンニへの納品が続いた。
これは余談だが、2023年9月、マウリッツィオ、アレッサンドロのマリネッラ親子が来日した際、直接マウリッツィオにジャンニ・アニエッリの写真を何枚か見せると、「これも、それも」と、ネクタイの幅が太く、生地感がウールのものはすべて「マリネッラ」の誂えだったと教えてくれた。

70年代は、75年のジョルジオ・アルマーニに続いて、ジャンフランコ・フェレ、ジャンニ・ヴェルサーチェがデビューした。華麗なデザイナーの時代を迎えるとともに、ミラノモーダが世界的に大ブレイクする光景がみえはじめる。

こうしてイタリアの1940~70年代の歴史をまとめると、「マリネッラ」創業50周年の前後に、国の経済発展と足並みをそろえるかのように、次第に「マリネッラ」はイタリア国内外に認知される。さらに、ネクタイの分野でどのブランドよりも先んじて、世界的なステイタスの確立へと着実な歩みを進めていた。

Photos by Mimmo and Francesco Jodice for E.Marinella - “Napoli e Napoli” book

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矢部克已/Katsumi Yabe

1964年東京生まれ。ファッションエディター、ファッションジャーナリスト。
流行通信社(『流行通信HOMME』編集部)、婦人画報社(『メンズクラブ』編集部)を経て、イタリアに渡る。フィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィア、ミラノの4都市に移り住む。帰国後、ウェブマガジン『DUCA』『Espresso per te』(ソフトバンククリエイティブ)編集長歴任。星美学園短期大学で非常勤講師。雑誌『メンズプレシャス』のエグゼクティブ・ファッションエディターを務めた。ウェブサイト、トークショーでも活躍。イタリアのクラシックなファッションを中心に、メンズファッション全般にわたる歴史やスタイル、トレンドに精通し、SNSを積極的に発信する。


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