マリネッラ創業110年
ーーイタリアの文化と社会とともにーー
第一回「1900~09年:マリネッラ創業前夜」
Sep 24, 2022
2024年6月に創業110年を迎えるマリネッラ。
メンズファッションエディター矢部克已氏による年代別のコラムを、記念すべき周年に向けてお届けいたします。
年代別のコラムは、イタリアの文化・風俗・ファッション・映画・芸術などの歴史を通し、トピック的な政治経済史を挿みながら、この110年の「マリネッラ」の存在を位置づけるものです。「マリネッラ」の代表的な商品となる、ネクタイの伝統的な魅力や、巧みなものづくりを掘り下げるために準備した、イタリアとナポリの歴史哲学的な視座を踏まえています。
国家統一運動のリソルジメントを経て、20世紀に入ったイタリア。
“未回収のイタリア”という問題を抱えていたが、地中海に突き出た“長靴”の新世紀がはじまった。
1900年、脂ののった作曲家ジャコモ・プッチーニが、『トスカ』を引っ提げてローマで初演を果たした。
1901年、物理の分野では、グリエルモ・マルコーニが大西洋を越えた無線通信に成功する。その距離は約3,200㎞。“ツーツー、トッツー”のモールス信号が、イギリスとカナダをつないだのだ。同年、詩人サルヴァトーレ・クァジーモドが誕生した。
偉大なオペラ歌手エンリコ・カルーゾが、ミラノでレコード録音に成功したのが1902年。破格の100万枚ものセールスを記録。音質はあまりよくなかったものの、録音技術は急速に進歩する。
1903年、第2次ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣成立。
イタリアではじめての短編サイレント映画が制作される。ローマ併合を描いた史劇『ローマ占領』、1905年だった。
1906年にルキノ・ヴィスコンティがミラノで生誕。同年には、ロベルト・ロッセリーニも生まれる。伊達男として知られる先輩格のヴィットリオ・デ・シーカとともに、1950年代のネオレアリズモを代表する映画監督たちが、20世紀初頭に胎動した。同じ年には、ミラノ万博が開催された。テーマは、当時の関心事“輸送”。40か国が参加した。
さらに同年は、イタリア初のノーベル賞をふたりが受賞したのだ。病理学者のカミッロ・ゴルジが生理学・医学賞、詩人のジョズエ・カルドゥッチが文学賞に輝いた。同時受賞の快挙に、イタリア中が歓喜した。
ミラノで、ブルーノ・ムナーリが生まれたのは1907年。後年“役に立たない機械”の発表で、一躍有名となった芸術家だ。ユニークな教材や理論で、デザイン教育者として地位を確立し、親日家でもあった。同年、医学者で幼児教育者のマリア・モンテッソーリは、“こどもの家”をローマに開設。“こどもの家”は、発達モデルに基づいたモンテッソーリ教育の拠点となり、欧米をはじめ世界各国にその教育法が広がる。
1909年に、詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが、フランスの新聞『ル・フィガロ』で、マニフェストのごとく芸術運動“未来派(フトゥリズモ)”を高々と宣言する。国内政治をも揺るがした一大ムーブメントとなる。マリネッティは、ハイカラ―のシャツに、いつも決まってボウタイを結んだ服装で、見る者に強い印象を残した。
20世紀に入って間もなく、後世に残る出来事が続いた時期、エウジェニオ・マリネッラ(マリネッラ創業者)は、まだ紳士服業界で働いていた。
Photos by Mimmo and Francesco Jodice for E.Marinella - “Napoli e Napoli” book
1964年東京生まれ。ファッションエディター、ファッションジャーナリスト。
流行通信社(『流行通信HOMME』編集部)、婦人画報社(『メンズクラブ』編集部)を経て、イタリアに渡る。フィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィア、ミラノの4都市に移り住む。帰国後、ウェブマガジン『DUCA』『Espresso per te』(ソフトバンククリエイティブ)編集長歴任。星美学園短期大学で非常勤講師。雑誌『メンズプレシャス』のエグゼクティブ・ファッションエディターを務めた。ウェブサイト、トークショーでも活躍。イタリアのクラシックなファッションを中心に、メンズファッション全般にわたる歴史やスタイル、トレンドに精通し、SNSを積極的に発信する。